Yet Another Brittys Wake

the wonderful widow of eighteen springs

電王戦

コンピュータ将棋と現役プロ棋士が団体戦をするという企画。楽しみにしていた。最近のコンピュータ将棋というのは途方もなく強いそうで、というのはいまさら書くことでもないが、おかげで人工知能だのアルゴリズムだの計算量だのいうことばがあちこちで聞かれて、計算機科学者の(もと)女房としてはなんだかぼうっとうれしい気がしてしまう。

そうなのです。

自分が関心のあることに他人が興味を示してくれることも嬉しいけれど、自分の大切な人が心血を注いでいたことに他人が興味を示してくれることがこれほどまでに嬉しいというのは知らなかった。今回の企画、私の知人には関係者はいないはずなのだが、計算機科学まわりの話題がみなさまの軽い会話にのぼることがただ嬉しく、コンピュータ将棋というあ る種の人工知能システムが一定の成果をあげているとみなに認められることも嬉しくて、これはひとつの達成だという気がした。亡夫がやっていたのは純粋に理論的なことだったので、「どんなことやってるんですか」の後の会話はたいてい途切れて微妙な感じで終わってしまうのが常であった。グラフ理論というのを彼はやっていて(もっというと最大クリーク問題という分野なのだが、そこまでくると私もよくわからないのでおいておく)、これはたぶんに話をはしょりすぎなんじゃないかとおもうけど、オイラーケーニヒスベルクの橋を一筆書きで渡ることができないことを証明した話でわかったような気分にさせるのが分野外のひとに自分の仕事を説明するときの常套手段であった。いまどきはオイラーケーニヒスベルクも一発でわかってくれる人は少ないらしく、彼はわたしの友人がオイラーはまあともかくケーニヒスベルクを知っているので驚いたり感動したりしていたが、まあドイツ思想をやってケーニヒスベルクを知らないとか、ないから(ある友人は「レオンハルトオイラーだって常識の範疇でしょう」と呆れ顔でいっていたが博識の人がいうことなのでどこまで信じていいのかわからない)。ところでオイラーケーニヒスベルクにいったことがないらしいですよね。おいて。

せっかく世の人がもりあがっているところ、願わくば、ネットワークやマシンのトラブルで水が指されないといいな、と思い、誰を応援しているかと強いて問われればそれは各コンピュータ将棋を稼動させる計算機の運用担当者のみなさまです、みたいな感じなので勝敗についてはあまり気にしていなかった。

ですけど、負けを悟って飲み込んでいく佐藤慎一四段の沈痛な顔を中継でみていると、とてもいたたまれない気持ちがしてきた。勝負事なので勝ち負けがでるのはしかたなくて、けど、やっぱり敗北はつらい。佐藤さんはブログを見る限り思いつめるたちの方のようで、そのこともあとでなんだか気になった。大舞台での自らの敗北を飲み込むには時間がかかるだろうが、消化して、これからの棋士人生に生かしてほしいと願っている。

計算量勝負だとおもえばいまどきの計算機人間が勝てないのは当たり前だが、将棋になにかしら創造的なものをみている立場からは釈然としないものが残るだろうとも思う。わたしはといえばアルゴリズムやその実装にもなにかしら創造的なものはありえて、なのでそれ自体は心のないコンピュータ将棋にもその名残が燐光のようにきらめいているように思う。いわゆる人工知能は結局あらかじめ仕込まれた手順に閉じてそこから答えを返すブラックボックスだとしても、その手順はわれわれのかたちになぞらえて作られている。なので電王戦の企画をわたしは人間とコンピュータの対決とは呼びたくない――それは畢竟人と人との営みのひとつの形にすぎないのだ。

自分が大好きな棋士がいままで出てきていないからこんな悠長なことをいっていられるのかなあ、という気もするが、その意味で従前から好きな棋士のひとりである三浦八段が登場する第五戦、自分がどう感じるのかもふくめて楽しみにしている。もっともそこでも、計算機科学者にして運用担当者の女房としては、東大駒場のシステムとその運用担当者を最も熱く応援したくなるのだけど。