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Yet Another Brittys Wake

the wonderful widow of eighteen springs

ダニーがんがれがんがれ

shogi

標題の通り。ただいま(といっても実際には夕食休憩中だが)関西将棋会館竜王戦挑戦者決定三番勝負第一局、糸谷六段―羽生名人戦が行われている。将棋ファンのはしくれとして羽生さんは将棋も著述も漏れ聞くエピソードも大好きだしメディア出演ともなければかかさずチェックしている(一番好きな棋士ではない、為念)わたくしではあるが、しかしここは糸谷哲郎六段を応援せざるをえない。

だって後輩ですからね。ご面識を得ていないが(わたしは哲学科じゃないし*1ドイツ観念論研究会*2会員じゃなかったし)、というより今後もご知遇を得る機会はない気がするが、しかし阪大大学院文学研究科といえば、学内のそれも同じキャンパスの人間にさえ「うちの大学に文学部があったんですねえ、知らなかった」とほがらかにいわれてしまう超マイナーな存在であって、いや冗談でなく亡夫とはじめてあったときに、わたしはこういわれたんですよ。グーでなぐってやろうかと思った、てのはさておき、そのような小さいめだたない学校の同窓ともなれば理非をおいて応援してもひとは怪しまないであろう。

糸谷君は学部在籍当時にNHK杯で活躍したので以後将棋関係の人には少なくとも「阪大に文学部(略)」とかいわれなくなったのも、まことに嬉しい限りである。ただ、その時点では同窓というのにひけめもあって、ほらわたくし都立大出身者ですからね、狭義には阪大を学部で出た人はわたくしの後輩とはいえないのです。それで院生時代、学部在籍中の後輩が「せんぱ~い」と甘えてくるのを戯れに「君はわたしの後輩じゃない、後輩扱いしてほしかったらとっとと院に受かるんだな」と冷たくあしらったりもしたものだが、いやさすがに同じ研究室の後輩だけですよ?*3ともあれ、阪大は生え抜きうんぬんということにはあまり厳しい区別はないのだが、しかし文学研究科博士前期課程在学中といえばこれはどこからどうみても立派に後輩であって、いや面識ないですけどねでも嬉しいじゃないですか。それも将棋という自己目的的な技芸を職業として身を立てるという投企はまことに文学的であり詩的である。これは応援せざるを得ない。ましてその棋風が、運動の喜びに満ち満ちて、放埓に流れぬ力動性、気取らない犀利さの精妙なバランスをあわせもつ、モンドリアンの絵画にも似た躍動と高揚を感じさせるとあっては。

だけど将棋が芸術かというのはそれとは別の問題で、わたくしはそこはスポーツが芸術でない程度には将棋も芸術ではないと考えている。わたくしが学生だった90年代後半はこのスポーツは芸術かという議論がドイツ語圏を中心に盛んだったため、なにやら懐かしい気もするが、しかし学界の趨勢としてもこの議論は否定的な結論に至った記憶がある。つまり「関心なき ohne Interesse 満足」 という伝統的なカント以来の美の、ちうことは芸術の特徴に、勝ち負けを目的とするスポーツ競技はそぐわないのですね。同じことが厳しく勝ち負けを争う将棋にもやはりあてはまると思っている。平たく言うと、贔屓の棋士が負けた一局はたとえ中終盤ぎりぎりまで素晴らしい攻防が続いたとしても並べるのつらいじゃないですか……わたくしなんか藤井先生*4が負けた日は次の日まるまる寝込みますよ……でも悲劇的な小説とか読んでそうなることはない。鑑賞者の心的状態ということだけからしても、芸術作品の享受と将棋の勝負の観戦ということは、相当違う事態なんですね。*5

ええとなんの話だったっけ?そうそう、糸谷君がんばれという話でした。むろんがんばってるのに相違ないので、これはむしろ祈りに近い。彼のもてる力が最大限に発揮されますようにと。おっもう19時だ、夕休明けだ。観戦に戻ります。

*1:阪大は哲学科と美学科が別である。

*2:という名前だが半分の会員はハイデガーフッサール関係の現象学系の人である、歴史的経緯でそうなっている。

*3:追記。なかむらしろまるにも同じことを言った気がする。さすがに本人に向かってだけいうのであって、彼が私を先輩としていまだに尊んでくれることはありがたいことだとおもっている。おやinsタグはもう使えなくなったのだね。

*4:藤井猛九段。

*5:いやそれはおまえの個人的体験だろとおっしゃるかもしれませんが、美学者の出発点は最後はおのれの美的経験なのだと思います。むかし西村清和先生に「自分の美的経験を大事にしなさい」といわれたのをふと思い出した。