Yet Another Brittys Wake

the wonderful widow of eighteen springs

はじめての五枚落ち

ひょんなことから将棋道場に通っている。アットホームというおよそ将棋道場らしからぬ名前だが、将棋道場なのである。正式名称を「伊丹将棋センター・アットホーム」という。道意線の北側の入り口のすぐそば、その三叉路からみて、じゅうじゅうカルビの向かい側ただしちょっと手前にある(ローカルな話で他地方のかたには申し訳ありません)。

北摂に将棋道場は珍しい。石橋には碁会所がある。伊丹の駅近くにも碁会所がある。塚口はどうだったかなあ。武庫之荘には両方ないのかな、いや私が知らないだけか。囲碁はやらないので普段の通り道にあればたまたま知っている程度である。でも逆にいえばそんなわたしでも複数の碁会所を知っているくらい、この界隈には碁を打つひとたちがいる。いっぽう北摂に住んでもう20余年になるが、将棋道場ははじめてみた。*1

新聞小説の延長で観戦記を読む小学生が長じて、不幸な事件があって将棋から気持ちが離れた話は以前書いた。そもそも将棋の記事を喜んで読んでいた頃も、自分で指そうという気はまったく起きたことがなかったのである。そんなわたくしが、将棋道場ってちょっといってみたいな、と思うようになったのは、『ひらけ駒!』がきっかけだった。自分とあまり年の変わらない女性が、将棋道場に通ったり女子の団体戦にでたりというのがいかにも楽しそうで、しかしいきなり福島*2や十三*3へいく勇気も持てなくて、いやあなたそこで笑ったでしょう、でもお作法のたぐいを知らないでそういう場所へいくのは勇気がいる。なにしろこちらは駒をもったこともなければ、他人と指したこともないのだから。それに電車に乗っていくともなれば、それなりに身奇麗にしていかねばなるまい。わたくしはそういうことがとてつもなく面倒くさい性分なのである。

さて数年前四十肩をやり、整骨院に通っていたことがあった。待合室で浦野真彦『1手詰ハンドブック』を解いていると、整骨院の先生が「すごいや、将棋の本だ」と明るい声をあげた。「こんど将棋指そうよ、将棋盤もってきてよ」という先生と話をするうちに、近くに将棋道場があるということがわかってきた。それが伊丹アットホームだったのである。診察時間の合間に通っては小学生に負かされていると陽気に話す整骨院の先生に、釣り込まれてなんだかわたくしも笑いが出た。

実際に伊丹将棋センターにいってみたのは、さらに1年くらいたっていたろうか。石橋で歯医者にいった帰り、自転車で通りかかると夜も遅いのに灯りがついていた。石橋にいくとわたくしはいつも少し寂しい、人恋しい気持ちになる。なのでか釣り込まれるように階段をのぼっていくと、男性が数人、将棋を指すでもなく話をしていた。そのなかでひとり年配の方がいて、それが席主の梶井さんだった。口数の多い方ではなく、すこしぶっきらぼうな気もしたがそれはわたくしが緊張していたからだろうか。せっかく来たんだから一局指していきなさいと梶井さんはいって、そこにいた若い人と手合いをつけてくれた。人と指すのははじめてで自分の棋力はわからないといったところ、じゃあ二枚落ちでといわれ当時ハム将棋の八枚落ちにもぼこぼこにやられていたわたくしは気が遠くなったが、二枚落ちの定跡など知らないので本でおぼえたばかりの藤井矢倉に組んで、終盤はだいぶ対戦相手からもヒントをもらって、なんとかわたくしが勝ったという態にしてもらった。みながほがらかでなんとも気持ちのよい晩であった。少し覗いて帰るつもりが一局指したところ二時間近くたっていて、その日はふわふわとした気分で気持ちよく寝付いたが、たんに歯を抜いて疲れていたからということだったのかもしれない。

 

それで将棋道場に精勤するようになった、わけではなくて、その後いったのは実際には一度きりの気がする。その年は亡夫の十三回忌にあたる年で、忌日にとくに何かするわけではないのだが、一時期は電信柱をみても涙がとまらないような時期があったことは確かである。このブログもほとんど更新していない。それで伊丹将棋センターにも行っていなかったのだが、近くにそういう場所があって、無愛想だが細やかに気を配ってくれる老席主がそこにはいて、そこへいけば木のすべらかな駒を古いしっかりした二寸盤に並べて、ほかにはなにもなくただ時間が過ぎていく、そのことが少し心の救いになっていた面はあった。その一度いったときに、子ども教室に混ぜてもらって、それはプロ棋士である森信雄七段が隔週で教えにくるのだが、森先生も優しい方で、その人柄に接して嬉しかった。ただ、この子どもたちはみな亡夫がなくなった後に生まれている、あるいはあの年に生まれている、そのことに気がついたとき喉がなにか真っ黒なものにふさがった気がして、叫びだしたくなった。帰り道ただそのことばかりを考えて、胸が苦しくてたまらなくなった。

森先生のブログに伊丹将棋センターの記事があるのに気づいて意識的に読むようになったのは去年のいつ頃だろうか。梶井さんが入院していて、というのを短期のことであるように少し楽観的に自分は考えていて、なのでそのうちまた戻ってきて、あそこにちんまりと収まって座っている、ような気分でいたのだが、梶井さんはお亡くなりになった。そのこともまた森先生のブログで知った。

道場がどうなるのだろうと自分はまずそのことが気になった。梶井さんの不在をきちんと受け止めるには、梶井さんとはご縁が薄すぎて、ただあの場所がどうなるのかそのことが気がかりだった。それで次の火曜日、自分がはじめて伊丹将棋センターへいったのと同じような時刻にとりあえず様子をみにいってみた。灯りがあった。人がいた。森先生もいた。道場では恒例の火曜ナイターというリーグ戦をやっていた。三局あるなか、対抗形の終盤の将棋に人が群がっていて、わたしもその攻め合いを面白くみた。おわって立ち去りがたく佇んでいると、森先生が声をかけてくださり、六枚落ちで一局教わった。角を切るべきところ▲92香成としてしまい駒もぼろぼろ渡し、ひどい作戦負けだったのだが、上手の攻めを辛くも受け切って最後は上手玉を即詰みにした。感想戦のあと「次からは四枚落ちで指しなさい。六枚落ちばかり指していると、六枚落ちの将棋になってしまうから」といわれ、嬉しかった。この数年余、詰将棋をしたり棋書を読んだりしていたことは無駄ではなかったのだなと思った。その心の弾みで、少し大胆になって、「今後はどうなりますか」といちばん訊いてみたかったことを口に出すと、「年内は営業を続けるときいています」と森先生が仰られた。日曜日は毎週、火曜日は夕方から隔週で、ということである。

昨日の火曜日、伊丹将棋センターを訪れると、やはり火曜のリーグ戦を数人が指していた。おじさんに混じって少年少女もいた。森先生に「指しますか」といわれるのを期待していなかったといわれれば嘘で、棋譜を取るつもりで更のノートを持参したくらいである。実際には嬉しさで舞い上がってしまってノートをだすのを忘れたのだが(図面はその場で書かず、携帯で写真にとればよかったんですね)。そしてやはり先生を前にするというのは緊張するもので、なので上手が端歩をつくまで右桂も落としていることに気が付かなかったくらいである。五枚落ちの手合いがあるのは Kifu for Windows のメニューにあるくらいで知らなかったわけではないが、棋譜をみたこともなくましてや指すのもはじめてで、緊張した。結果はぼこぼこにされて「これはもうだめですね」と投了を勧告されました。前回の六枚落ちもそうなのだが、仕掛けるべきところひるんで却って悪い手を指すのがわたくしの弊であるようなのだ。攻め始めたら勇気をもって攻め切るのが大事と教えていただいた。感想戦ではわたくしが損ねてしまったところからもう一度教えていただいて、それは気持ちよく王手をかけ駒が入り、ちょっとリスクをとった先に夢のような沃野があるのを見せていただいた。こうなると将棋って楽しいですよね。普段観戦している平手だとありえないような勝ち方なのでなおさらそう感じられる。また森先生に教えていただく機会があるかどうかはわからないが、昨日教えていただいたことを大事に覚えていたいと思っている。なお伊丹将棋センターの次の営業日は来週の日曜31日13時からということである。

*1:なお伊丹将棋センターにも碁盤は三面ある。打っている人をみたことはないけれど。

*2:関西将棋会館道場KOFの打ち合わせで福島にはなんどかいったことがあるので前は通りかかったことがある。立派な建物であった。

*3:十三にも将棋道場がある。梅田側の改札を京都線のほうへ出て、少し歩く。なぜそんな細かいことを知っているかといえば以前十三を歩く機会があったときに場所を確かめにいったからである。ちなみにそのとき入らなかったのは勇気がなかったからではなく、夜だいぶ遅くもう閉まっていたからだった。