Yet Another Brittys Wake

the wonderful widow of eighteen springs

はじめての五枚落ち

ひょんなことから将棋道場に通っている。アットホームというおよそ将棋道場らしからぬ名前だが、将棋道場なのである。正式名称を「伊丹将棋センター・アットホーム」という。道意線の北側の入り口のすぐそば、その三叉路からみて、じゅうじゅうカルビの向かい側ただしちょっと手前にある(ローカルな話で他地方のかたには申し訳ありません)。

北摂に将棋道場は珍しい。石橋には碁会所がある。伊丹の駅近くにも碁会所がある。塚口はどうだったかなあ。武庫之荘には両方ないのかな、いや私が知らないだけか。囲碁はやらないので普段の通り道にあればたまたま知っている程度である。でも逆にいえばそんなわたしでも複数の碁会所を知っているくらい、この界隈には碁を打つひとたちがいる。いっぽう北摂に住んでもう20余年になるが、将棋道場ははじめてみた。*1

新聞小説の延長で観戦記を読む小学生が長じて、不幸な事件があって将棋から気持ちが離れた話は以前書いた。そもそも将棋の記事を喜んで読んでいた頃も、自分で指そうという気はまったく起きたことがなかったのである。そんなわたくしが、将棋道場ってちょっといってみたいな、と思うようになったのは、『ひらけ駒!』がきっかけだった。自分とあまり年の変わらない女性が、将棋道場に通ったり女子の団体戦にでたりというのがいかにも楽しそうで、しかしいきなり福島*2や十三*3へいく勇気も持てなくて、いやあなたそこで笑ったでしょう、でもお作法のたぐいを知らないでそういう場所へいくのは勇気がいる。なにしろこちらは駒をもったこともなければ、他人と指したこともないのだから。それに電車に乗っていくともなれば、それなりに身奇麗にしていかねばなるまい。わたくしはそういうことがとてつもなく面倒くさい性分なのである。

さて数年前四十肩をやり、整骨院に通っていたことがあった。待合室で浦野真彦『1手詰ハンドブック』を解いていると、整骨院の先生が「すごいや、将棋の本だ」と明るい声をあげた。「こんど将棋指そうよ、将棋盤もってきてよ」という先生と話をするうちに、近くに将棋道場があるということがわかってきた。それが伊丹アットホームだったのである。診察時間の合間に通っては小学生に負かされていると陽気に話す整骨院の先生に、釣り込まれてなんだかわたくしも笑いが出た。

実際に伊丹将棋センターにいってみたのは、さらに1年くらいたっていたろうか。石橋で歯医者にいった帰り、自転車で通りかかると夜も遅いのに灯りがついていた。石橋にいくとわたくしはいつも少し寂しい、人恋しい気持ちになる。なのでか釣り込まれるように階段をのぼっていくと、男性が数人、将棋を指すでもなく話をしていた。そのなかでひとり年配の方がいて、それが席主の梶井さんだった。口数の多い方ではなく、すこしぶっきらぼうな気もしたがそれはわたくしが緊張していたからだろうか。せっかく来たんだから一局指していきなさいと梶井さんはいって、そこにいた若い人と手合いをつけてくれた。人と指すのははじめてで自分の棋力はわからないといったところ、じゃあ二枚落ちでといわれ当時ハム将棋の八枚落ちにもぼこぼこにやられていたわたくしは気が遠くなったが、二枚落ちの定跡など知らないので本でおぼえたばかりの藤井矢倉に組んで、終盤はだいぶ対戦相手からもヒントをもらって、なんとかわたくしが勝ったという態にしてもらった。みながほがらかでなんとも気持ちのよい晩であった。少し覗いて帰るつもりが一局指したところ二時間近くたっていて、その日はふわふわとした気分で気持ちよく寝付いたが、たんに歯を抜いて疲れていたからということだったのかもしれない。

 

それで将棋道場に精勤するようになった、わけではなくて、その後いったのは実際には一度きりの気がする。その年は亡夫の十三回忌にあたる年で、忌日にとくに何かするわけではないのだが、一時期は電信柱をみても涙がとまらないような時期があったことは確かである。このブログもほとんど更新していない。それで伊丹将棋センターにも行っていなかったのだが、近くにそういう場所があって、無愛想だが細やかに気を配ってくれる老席主がそこにはいて、そこへいけば木のすべらかな駒を古いしっかりした二寸盤に並べて、ほかにはなにもなくただ時間が過ぎていく、そのことが少し心の救いになっていた面はあった。その一度いったときに、子ども教室に混ぜてもらって、それはプロ棋士である森信雄七段が隔週で教えにくるのだが、森先生も優しい方で、その人柄に接して嬉しかった。ただ、この子どもたちはみな亡夫がなくなった後に生まれている、あるいはあの年に生まれている、そのことに気がついたとき喉がなにか真っ黒なものにふさがった気がして、叫びだしたくなった。帰り道ただそのことばかりを考えて、胸が苦しくてたまらなくなった。

森先生のブログに伊丹将棋センターの記事があるのに気づいて意識的に読むようになったのは去年のいつ頃だろうか。梶井さんが入院していて、というのを短期のことであるように少し楽観的に自分は考えていて、なのでそのうちまた戻ってきて、あそこにちんまりと収まって座っている、ような気分でいたのだが、梶井さんはお亡くなりになった。そのこともまた森先生のブログで知った。

道場がどうなるのだろうと自分はまずそのことが気になった。梶井さんの不在をきちんと受け止めるには、梶井さんとはご縁が薄すぎて、ただあの場所がどうなるのかそのことが気がかりだった。それで次の火曜日、自分がはじめて伊丹将棋センターへいったのと同じような時刻にとりあえず様子をみにいってみた。灯りがあった。人がいた。森先生もいた。道場では恒例の火曜ナイターというリーグ戦をやっていた。三局あるなか、対抗形の終盤の将棋に人が群がっていて、わたしもその攻め合いを面白くみた。おわって立ち去りがたく佇んでいると、森先生が声をかけてくださり、六枚落ちで一局教わった。角を切るべきところ▲92香成としてしまい駒もぼろぼろ渡し、ひどい作戦負けだったのだが、上手の攻めを辛くも受け切って最後は上手玉を即詰みにした。感想戦のあと「次からは四枚落ちで指しなさい。六枚落ちばかり指していると、六枚落ちの将棋になってしまうから」といわれ、嬉しかった。この数年余、詰将棋をしたり棋書を読んだりしていたことは無駄ではなかったのだなと思った。その心の弾みで、少し大胆になって、「今後はどうなりますか」といちばん訊いてみたかったことを口に出すと、「年内は営業を続けるときいています」と森先生が仰られた。日曜日は毎週、火曜日は夕方から隔週で、ということである。

昨日の火曜日、伊丹将棋センターを訪れると、やはり火曜のリーグ戦を数人が指していた。おじさんに混じって少年少女もいた。森先生に「指しますか」といわれるのを期待していなかったといわれれば嘘で、棋譜を取るつもりで更のノートを持参したくらいである。実際には嬉しさで舞い上がってしまってノートをだすのを忘れたのだが(図面はその場で書かず、携帯で写真にとればよかったんですね)。そしてやはり先生を前にするというのは緊張するもので、なので上手が端歩をつくまで右桂も落としていることに気が付かなかったくらいである。五枚落ちの手合いがあるのは Kifu for Windows のメニューにあるくらいで知らなかったわけではないが、棋譜をみたこともなくましてや指すのもはじめてで、緊張した。結果はぼこぼこにされて「これはもうだめですね」と投了を勧告されました。前回の六枚落ちもそうなのだが、仕掛けるべきところひるんで却って悪い手を指すのがわたくしの弊であるようなのだ。攻め始めたら勇気をもって攻め切るのが大事と教えていただいた。感想戦ではわたくしが損ねてしまったところからもう一度教えていただいて、それは気持ちよく王手をかけ駒が入り、ちょっとリスクをとった先に夢のような沃野があるのを見せていただいた。こうなると将棋って楽しいですよね。普段観戦している平手だとありえないような勝ち方なのでなおさらそう感じられる。また森先生に教えていただく機会があるかどうかはわからないが、昨日教えていただいたことを大事に覚えていたいと思っている。なお伊丹将棋センターの次の営業日は来週の日曜31日13時からということである。

*1:なお伊丹将棋センターにも碁盤は三面ある。打っている人をみたことはないけれど。

*2:関西将棋会館道場KOFの打ち合わせで福島にはなんどかいったことがあるので前は通りかかったことがある。立派な建物であった。

*3:十三にも将棋道場がある。梅田側の改札を京都線のほうへ出て、少し歩く。なぜそんな細かいことを知っているかといえば以前十三を歩く機会があったときに場所を確かめにいったからである。ちなみにそのとき入らなかったのは勇気がなかったからではなく、夜だいぶ遅くもう閉まっていたからだった。

うしもうもう

むかしむかしそのむかし、とてもたのしいころのこと。以下略。うしもうもうだよ、スティーヴン!

Die Hemme Kuh-Cam

ドイツの友人が retweet していたので知りました。Hemme-Milch ヘメ乳業というところの牧場のライヴカメラです。URL は http://www.kuh-cam.de/ 動画の部分だけキャプチャできないかと思ったけど書式わからんかった。

通販もやっているようですが、海外へはさすがに無理だよねえ。オランダあたりならともかくですが。Quark とかなつかしいなあ。なぜ日本で流通しないんでしょうねえ。ヨーグルトのバナナココナツ味とかヴァニラ味とかもそそります。ヴァニラはエッセンス買って来て家でも出来るかな。いや、そういうことはともかくとして、牛いいですよねえ。しかしさすがドイツですねホルスタインだ。フランスを旅行したときも鉄道の沿線に牧場をよくみたものですが、フランスの牛は茶色いんですよね。あれはなんという品種なのだろうか。

ところでヘメ乳業の牛たちは現地18時(欧州中央夏季標準時)日本時間で午前1時になると牛舎へ戻ります*1。そこで疑問に思ったのですが、ヘーゲルの闇夜の牛という話がありますよね。あれは当時は夜でも戸外で飼ったものか、それとも言葉の綾ということなんでしょうか。ドイツの牧畜文化に詳しい方にご教示いただければ幸いです。

*1:ライヴカメラページの上部注記には、搾乳・悪天候・夕方18時以降には牛舎に入るとある。ただこれは夏だけなんだろうな。ドイツじゃ秋ともなると18時ではもうまっくらですから。

憩の四季

さて過日の竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局は糸谷六段が制し、大きな一勝を挙げたわけだが、その朝のことである。Twitterを関連ツイートを探してブラウズしていたところ、こんな記述をみつけた。

 

 ええと、これは、阪大坂の憩なんですかね。と訊くのはあの界隈にはもうひとつ憩という店があって、こちらは旧R171沿いのお好み焼き屋なのだが、しかしまあたんに憩といえば阪大坂の定食屋のほうをふつうは指すので、いや自分で訊けよって話だが、わたしは鍵っ子なのでですね。それで誰か @handashougibu さんに訊いておくれでないかいとフォロワーさんに頼んだのだが、スルーされました。みんな、ひどい。いや、自分で確かめにいけばいいんだけど、憩はわたくしの青春そのものなんですよ!だから閉じていたらたぶんものすごいショック受けるので、怖くて確かめに行く気になれない。心の準備をしてからでないと絶対無理だとおもうんですね*1。なのでどなたか教えてくださるとありがたい。

 私が院生時代困窮を極めていたことは昔なんどかブログに書いたが(例として なんかみんな笑っているようだけれど - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake)、しかしそれでもたまに外食することはあって、価格(安い)と地理的条件(学校から遠くない)とパフォーマンス(がっつり食べられる)を満たす店というのはさすがに石橋にもそうは多くなく、そして憩は誰の目からみてもこの点総合一位の座を長く守っていた。守っていたと過去形で書くのはいまも開いているのか自信がないからで、いまも営業を続けているなら憩が第一位はまず間違いのないところだろう。20年前、「憩で先輩に700円おごってもらった」といえば、「それはすごいご馳走ですね」と即答されるのが相場であった。憩で700円といえば、ごはんに味噌汁に肉か魚の皿がひとつと野菜の煮たのかポテサラかはたまた切り干し大根の炊いたのの一汁二菜で、そしてこのおかずの量が半端ないのである。二人で分けてちょうどいいくらいのがどごーんと大皿に入ってやってくるので、それでいつも憩の前は学期中は店の外まで人が並んで一時間待ちは当たり前なのであった。相席が当然なのはいうまでもない。

しかし憩の魅力は、安さだけでも味だけでもなく、憩のおっちゃん*2の懐かしい気分のする笑顔ではないかと私は思う。見知った顔をみつけたときに人が自然に浮かべる笑顔で、おっちゃんはいつもわたくしたちを迎えてくれた。おっちゃんは下宿屋をやっていた時期もあって、おっちゃんを慕う人も多かったように聞いている。あの笑顔がみたくて通っていた人というのも結構いるのではないだろうか。帰りしな、勘定をすませて送り出されるときに「おおきにどん」とおっちゃんが独特な節でいうのを聞きたくて、わたくしも憩に通っていた時期があった。

憩に来るのは学生が主だったが、大学を出たあとも引き続きあの辺りに住んでいる人や、あるいはたんに憩がどうしても懐かしくなってふらっと現れる人もいて、店にはけっこう学生というには歳を重ねている風情の客もちらほら見えた。

所帯をもってわたくしの憩通いもだいぶん減ったが、しかし夫婦揃って忙しい時期にはけっこうお世話になった。ほかにもお世話になった店はいくつかあるが、憩はなにしろ大学から近かったのと、家庭料理が食べられることと、そしてやっぱり安いのが魅力的だった。あまり混んでいるときには、そして疲れていてとにかくすぐに座りたいときなどには、遠慮してよそへいったこともあるけれども、小一時間を厭わないでられるときには、憩はまず最初に候補に挙がる店だった。古い木の大きなテーブルに他の人たちと相席で付いて、平らでない床でやはり古い木の椅子をぎしぎしいわせて、優しい味のかぼちゃの煮付けや大豆やにんじんをいれて少し甘く炊いたひじきの炊いたんを二人で分けて、そうしてやくたいのない話をした。話の内容を書いてもいいが、なんでもない(とわたくしは思っている)話をネットニュースに書いたら「夫婦の会話を勝手に公にした」とあれがむくれたことがむかしあったので――ってあれは死んでるんだからこれが昔の話なのは断るまでもないですね、なので具体的な内容は控えておく。

憩で有名なのは客が絵付けをする湯呑みだが、以前、十年前くらいに憩のおっちゃんに伺ったところ、当分作る予定はないということなのでいまはどうしているか知らない。昔定期的に作っていたときには、そのときどきいた客が絵付けをして、卒業のときに持たせてもらうということだったが、これはたぶんに運もあって、わたくしは憩の湯呑みをもっていない。わたくしに憩を教えてくれた同級生は、この湯飲みを学部生のときに作ったとかで、たいそう自慢していたが、彼女が学部を出たときに湯飲みをもらったのかそれとも院を出たときにもらったのかはわたくしは覚えていない。どなたかこの辺の細かい話をご存知の方は教えてください。

憩は季節感を大事にする店で、正月はじめて店をあけるときには一杯の振る舞い酒があり、節分には鰯の炊いたんがメニューに載り歳の数とはいかないが煎り豆の振る舞いがあり、そうして夏にはかき氷があった。シロップだけなら100円、宇治や小豆は150円で、宇治金時は200円だったかもしれない。だいぶ長いこといっていないので忘れている。そうして夏休みにはさすがの憩も並ばずに座れるので、近所に住んでいたわたくしたち二人は、夕食が終わると涼みがてら憩に氷を食べにいったりしたものだった。

だからわたくしたち二人が旧医短の後にできた駐車場で花見をしていると、反対側にいたご家族が憩のおっちゃんのご一家だったというのもそう驚くことではなくて、平生季節の行事を大事にしているからこそ、店でも気を配って学生たちにその雰囲気を味合わせてくれたのだろう。どちらが先に気が付いたのか忘れたが、あいさつをする店でみるのと同じような、いつもの懐かしい感じのする笑顔で、おっちゃんが頭を下げてくれた。遠目にみたお重がずいぶん立派にみえたのを覚えている。

そしてわたくしたち二人が待兼山で花見をしたのは、それが最後になった。

 

ちょうど十年前、研究生活に戻ろうと私があくせくしていた頃、なので大学の図書館へ通う機会も増えて、憩で夕飯を取ることも再び多くなっていった。おっちゃんは変わらず笑顔で迎えてくれた。そんな日が数ヶ月つづいたろうか、ある日勘定を渡そうとしたわたくしにおっちゃんがいった。「お兄ちゃん、忙しいんですか。最近来られませんね」

わたくしはそのときどんな顔をしたのだろうか。泣きそうになった覚えはない。ただ胸に、というよりはみぞおちに、何か鈍いものを当てられたような気がして、息が一瞬できなくなった。どのようにいえばいいのか迷ったが、わたくしは一息に云った。「あの人はなくなりました」

おっちゃんの表情が消え、その眼差しは何もみていないようだった。釣銭のいらないちょうどの額をその手になすりつけるように渡して去るわたくしの背に、いつものことばが投げかけられたが、その声に力がなかったような気がするのはわたくしの記憶が細部を捏造しているのだろうか。それ以来、憩には行ったことがない。

*1:これは文字通りショックを受けるので、たとえばあぐら屋の閉店を知ったとき、同じビルに入っていた豆腐屋の閉店を知ったとき、どちらも一二週間寝込んでいました。

*2:店主とかマスターとか書きたくない、憩のおっちゃんは憩のおっちゃんである。みなにそう呼ばれていたし、なのでここでもそう呼ばせていただく。

ダニーがんがれがんがれ

標題の通り。ただいま(といっても実際には夕食休憩中だが)関西将棋会館竜王戦挑戦者決定三番勝負第一局、糸谷六段―羽生名人戦が行われている。将棋ファンのはしくれとして羽生さんは将棋も著述も漏れ聞くエピソードも大好きだしメディア出演ともなければかかさずチェックしている(一番好きな棋士ではない、為念)わたくしではあるが、しかしここは糸谷哲郎六段を応援せざるをえない。

だって後輩ですからね。ご面識を得ていないが(わたしは哲学科じゃないし*1ドイツ観念論研究会*2会員じゃなかったし)、というより今後もご知遇を得る機会はない気がするが、しかし阪大大学院文学研究科といえば、学内のそれも同じキャンパスの人間にさえ「うちの大学に文学部があったんですねえ、知らなかった」とほがらかにいわれてしまう超マイナーな存在であって、いや冗談でなく亡夫とはじめてあったときに、わたしはこういわれたんですよ。グーでなぐってやろうかと思った、てのはさておき、そのような小さいめだたない学校の同窓ともなれば理非をおいて応援してもひとは怪しまないであろう。

糸谷君は学部在籍当時にNHK杯で活躍したので以後将棋関係の人には少なくとも「阪大に文学部(略)」とかいわれなくなったのも、まことに嬉しい限りである。ただ、その時点では同窓というのにひけめもあって、ほらわたくし都立大出身者ですからね、狭義には阪大を学部で出た人はわたくしの後輩とはいえないのです。それで院生時代、学部在籍中の後輩が「せんぱ~い」と甘えてくるのを戯れに「君はわたしの後輩じゃない、後輩扱いしてほしかったらとっとと院に受かるんだな」と冷たくあしらったりもしたものだが、いやさすがに同じ研究室の後輩だけですよ?*3ともあれ、阪大は生え抜きうんぬんということにはあまり厳しい区別はないのだが、しかし文学研究科博士前期課程在学中といえばこれはどこからどうみても立派に後輩であって、いや面識ないですけどねでも嬉しいじゃないですか。それも将棋という自己目的的な技芸を職業として身を立てるという投企はまことに文学的であり詩的である。これは応援せざるを得ない。ましてその棋風が、運動の喜びに満ち満ちて、放埓に流れぬ力動性、気取らない犀利さの精妙なバランスをあわせもつ、モンドリアンの絵画にも似た躍動と高揚を感じさせるとあっては。

だけど将棋が芸術かというのはそれとは別の問題で、わたくしはそこはスポーツが芸術でない程度には将棋も芸術ではないと考えている。わたくしが学生だった90年代後半はこのスポーツは芸術かという議論がドイツ語圏を中心に盛んだったため、なにやら懐かしい気もするが、しかし学界の趨勢としてもこの議論は否定的な結論に至った記憶がある。つまり「関心なき ohne Interesse 満足」 という伝統的なカント以来の美の、ちうことは芸術の特徴に、勝ち負けを目的とするスポーツ競技はそぐわないのですね。同じことが厳しく勝ち負けを争う将棋にもやはりあてはまると思っている。平たく言うと、贔屓の棋士が負けた一局はたとえ中終盤ぎりぎりまで素晴らしい攻防が続いたとしても並べるのつらいじゃないですか……わたくしなんか藤井先生*4が負けた日は次の日まるまる寝込みますよ……でも悲劇的な小説とか読んでそうなることはない。鑑賞者の心的状態ということだけからしても、芸術作品の享受と将棋の勝負の観戦ということは、相当違う事態なんですね。*5

ええとなんの話だったっけ?そうそう、糸谷君がんばれという話でした。むろんがんばってるのに相違ないので、これはむしろ祈りに近い。彼のもてる力が最大限に発揮されますようにと。おっもう19時だ、夕休明けだ。観戦に戻ります。

*1:阪大は哲学科と美学科が別である。

*2:という名前だが半分の会員はハイデガーフッサール関係の現象学系の人である、歴史的経緯でそうなっている。

*3:追記。なかむらしろまるにも同じことを言った気がする。さすがに本人に向かってだけいうのであって、彼が私を先輩としていまだに尊んでくれることはありがたいことだとおもっている。おやinsタグはもう使えなくなったのだね。

*4:藤井猛九段。

*5:いやそれはおまえの個人的体験だろとおっしゃるかもしれませんが、美学者の出発点は最後はおのれの美的経験なのだと思います。むかし西村清和先生に「自分の美的経験を大事にしなさい」といわれたのをふと思い出した。

女子と小人

 

久々に書くブログがこれかよ、という気もするが

 

id:rna なんばくん、佐藤文平氏が詐欺罪で逮捕されたって。朝日に載ってた。

MS社の会員サービス悪用、詐欺容疑で男を逮捕:朝日新聞デジタル

http://digital.asahi.com/articles/ASG745R1MG74UUHB00B.html

 米マイクロソフト(MS)社の技術者用の会員IDをだまし取ったとして、栃木県サイバー犯罪対策室などは4日、福島県いわき市、HP管理業佐藤文平容疑者(57)を詐欺容疑で逮捕し、発表した。容疑を認めているという。

 県警によると、佐藤容疑者は2011年11月上旬ごろ、転売が禁じられているソフトの認証コード「プロダクトキー」を販売する目的でMS社のIT 技術者向けサービスに加入し、会員用IDの交付を受けた疑いがある。このキーを知人らに適正価格の半額以下で提供していたという。

 プロダクトキーで、MS社の基本ソフト「ウィンドウズ」「オフィス」など複数ソフトの正規版が使えるようになる。サービスの契約料は3万9千円で、利用可能になるソフトは計20万~30万円相当という。県警は、佐藤容疑者が複数のキーの交付を受け、少なくとも400万円以上の利益を得ていたとみている。

 いあわたしが朝日で直接みつけたわけじゃなくて、むろん教えてくれた方がいたのですよ、古い fj.life.religion 仲間でね。まあなんばくん耳聡いからもうご承知なんだろうけど。

いや何もかも懐かしい。佐藤文平氏が fj で活躍していた当時、彼に好かれて辟易していた何人かが集まって「佐藤文平氏に困惑する若人の会」*1を作ったときに、「あなたがたはクリスチャンとして恥ずかしくないのですか」とこれは品川バプテスト教会の某氏に叱責されてクリスチャンじゃない一同が恥ずかしく思ったのも懐かしい思い出です。なおこの方には後年、別の掲示板でお世話になって、そしてその掲示板は超教派クリスチャンが集まる掲示板に当然の展開として唯一神又吉イエスファンクラブと化していくのでした。2002年頃のことです。おいといて。

こんなことはてなメッセージでいえばいい(まだサーヴィスがあれば)んだろうけどI/Fわかりにくかった(そしてなんばくんがメッセージ受け付けてるかわからなかった)のでこちらに書いてIDコールを飛ばしておくことにします。メール?最近読んでない。未読たくさんあるから立ち上げるのもいやなんだよ。というわけでわたくしに何かご連絡したいことがおありならみなさま Twitter で mention 飛ばすのが比較的確実です、比較的というのは Twitter も気分がむいたとき数ヶ月おきくらいに見るくらいなので。この機会に書いておく。

 

 

*1:名称は記憶に頼っている。ちょっと違っているかもしれない。

電王戦

コンピュータ将棋と現役プロ棋士が団体戦をするという企画。楽しみにしていた。最近のコンピュータ将棋というのは途方もなく強いそうで、というのはいまさら書くことでもないが、おかげで人工知能だのアルゴリズムだの計算量だのいうことばがあちこちで聞かれて、計算機科学者の(もと)女房としてはなんだかぼうっとうれしい気がしてしまう。

そうなのです。

自分が関心のあることに他人が興味を示してくれることも嬉しいけれど、自分の大切な人が心血を注いでいたことに他人が興味を示してくれることがこれほどまでに嬉しいというのは知らなかった。今回の企画、私の知人には関係者はいないはずなのだが、計算機科学まわりの話題がみなさまの軽い会話にのぼることがただ嬉しく、コンピュータ将棋というあ る種の人工知能システムが一定の成果をあげているとみなに認められることも嬉しくて、これはひとつの達成だという気がした。亡夫がやっていたのは純粋に理論的なことだったので、「どんなことやってるんですか」の後の会話はたいてい途切れて微妙な感じで終わってしまうのが常であった。グラフ理論というのを彼はやっていて(もっというと最大クリーク問題という分野なのだが、そこまでくると私もよくわからないのでおいておく)、これはたぶんに話をはしょりすぎなんじゃないかとおもうけど、オイラーケーニヒスベルクの橋を一筆書きで渡ることができないことを証明した話でわかったような気分にさせるのが分野外のひとに自分の仕事を説明するときの常套手段であった。いまどきはオイラーケーニヒスベルクも一発でわかってくれる人は少ないらしく、彼はわたしの友人がオイラーはまあともかくケーニヒスベルクを知っているので驚いたり感動したりしていたが、まあドイツ思想をやってケーニヒスベルクを知らないとか、ないから(ある友人は「レオンハルトオイラーだって常識の範疇でしょう」と呆れ顔でいっていたが博識の人がいうことなのでどこまで信じていいのかわからない)。ところでオイラーケーニヒスベルクにいったことがないらしいですよね。おいて。

せっかく世の人がもりあがっているところ、願わくば、ネットワークやマシンのトラブルで水が指されないといいな、と思い、誰を応援しているかと強いて問われればそれは各コンピュータ将棋を稼動させる計算機の運用担当者のみなさまです、みたいな感じなので勝敗についてはあまり気にしていなかった。

ですけど、負けを悟って飲み込んでいく佐藤慎一四段の沈痛な顔を中継でみていると、とてもいたたまれない気持ちがしてきた。勝負事なので勝ち負けがでるのはしかたなくて、けど、やっぱり敗北はつらい。佐藤さんはブログを見る限り思いつめるたちの方のようで、そのこともあとでなんだか気になった。大舞台での自らの敗北を飲み込むには時間がかかるだろうが、消化して、これからの棋士人生に生かしてほしいと願っている。

計算量勝負だとおもえばいまどきの計算機人間が勝てないのは当たり前だが、将棋になにかしら創造的なものをみている立場からは釈然としないものが残るだろうとも思う。わたしはといえばアルゴリズムやその実装にもなにかしら創造的なものはありえて、なのでそれ自体は心のないコンピュータ将棋にもその名残が燐光のようにきらめいているように思う。いわゆる人工知能は結局あらかじめ仕込まれた手順に閉じてそこから答えを返すブラックボックスだとしても、その手順はわれわれのかたちになぞらえて作られている。なので電王戦の企画をわたしは人間とコンピュータの対決とは呼びたくない――それは畢竟人と人との営みのひとつの形にすぎないのだ。

自分が大好きな棋士がいままで出てきていないからこんな悠長なことをいっていられるのかなあ、という気もするが、その意味で従前から好きな棋士のひとりである三浦八段が登場する第五戦、自分がどう感じるのかもふくめて楽しみにしている。もっともそこでも、計算機科学者にして運用担当者の女房としては、東大駒場のシステムとその運用担当者を最も熱く応援したくなるのだけど。

 

太った、太っちゃった

表題の通り。

体重計に乗るのがだんだん怖いくらいに下腹が出てきて、そのうちに乾電池が切れてしまったので(引っ越し祝いにもらった電池式で体脂肪率が出るやつなのだ)計れなくなり、まあそのうちー マドレーヌを紅茶に浸すくらいまでにーと放っておいたのだが、さすがに新年を期に電池を入れ替えました。

太ってるよ、ママン。あうー。

なにがつらいといってですね、もとがうかつにほっそりしてたものだから、服のサイズが合わない。着る服がないならいっそあきらめて新しいのを買えばいいのだけど、袖が通るくらいにはまだ着られる。これがよろしくない。この寒いのに、下腹にひっぱられて、腰あたりまでシャツの裾が出るか出ないかくらいに微妙にもちあげられていて、腹がひんやりする。これは、わびしいよ。

エルサレムから帰ってきた直後は、事前のウォーキング特訓と現地での歩いて歩いて歩きまくった日々のおかげで(そもそも私の宿は旧市街から2km離れていた)48kg台まで落ちていた体重は、現在57.4kgまで増えている。これはとてもやばい。なんといっても一年半でそんだけ急激に増えたこと自体がやばい。それに、あと3kg足したら亡くなった人と同じ体重で、そしてあれは一応168cmくらいはあったのである。かたやわたくしは162cm。なお体脂肪率は27.5%でどこからみても立派な肥満ですありがとうございます。なおエルサレムから帰ってきたときの体脂肪率は23.5%でした。やっぱ太ったよねえ。それも急激に。えー、BMI (body mass index) だと21.9だ?肥満じゃない?でも着る服がないんじゃ困るんだよ。

なんでこうなったかはだいたい分かっている。昨春に四十肩をやって、そうしてウォーキングで腕を振るだけでも痛いので、とても運動する気分にはならなくて(四十肩になった瞬間、ちょうどストレッチでぶんぶん腕を振り回していたのも、運動に気後れする一因だったかもしれない)、家で将棋観戦しながら座り込んでお菓子を食べる日々が9ヶ月続けば、そりゃあ太るよね。動かないんだもん。おまけに、恒例の秋になるとどんより(今年は地雷原から遠ざかるという例年の自衛のほか、将棋を見るという新たな楽しみができたおかげでだいぶましだったのだが)で10月以降は料理もしなくなって、外で脂っこいでんぷん過多な食事をすることが増えたので、まあそりゃあ太っちゃうよね。

でもね、ぼくね、痩せるよ。決めました。やっぱこれはまずいもん。せっかく四十肩も直って(直ったの!)ふたたび背中にファスナーのある服が着られるようになったのに、太ったので着られないじゃ、悲しすぎるもの。

というわけで正月から近所の神社にウォーキングがてら出かけたり、映画『ホビット』をみるついでで自転車でかっとんだり、近場の公園のウォーキング専用道路でぐるぐるぐるぐるしたり、しております。自炊もがんばります。さすがに映画の帰りは遅かったこともあり外で食べたけど(揚げ物は家でしないで外で食べる派)。

こういうのは一人でやるとついさぼるので、自分に鞭をいれるべく、定期的に経過報告を公にさらすことにしました。前述の通り、本日1/4付の体重は57.4kg、体脂肪率27.5%、BMIは21.9です。これなんか計算間違っている気もするけど、いいのかねえ。